暗黙知と形式知について
暗黙知と形式知
SECIモデルというものがありますが、そこに暗黙知と形式知という考え方が出てきます。SECIモデルを知らない人でも暗黙知と形式知は聞いたことがあるかもしれません。
暗黙知とは、うまく言い表すことができない知識です。一方の形式知とは客観的に知ることができる知識です。形式知で分かりやすいものとしては、理論やモデルがあります。
「人は語れる以上のことを知っている」という言葉がりますが、この言葉はまさにその通りで、誰でもうまく言語化出来ない知識は多く持っています。むしろ、語ることができるのは、氷山の1角にすぎないのかもしれません。
人が何かを深く学ぶ場合は、自分が持っている暗黙知や他人が持っている暗黙知を言語化することが重要になります。一つのことを長く経験していると、「うまく言えないけど、こうすればうまくいく」という感覚のようなものが現れることがあります。これも暗黙知です。
この感覚は非常に重要ですが、これを言語化したりモデル化することができれば、更に知識は深まります。
私は臨床で看護師をしていましたが、「この患者は何かおかしい」という感覚を持つことが何度もありました。しかし、それを言語化することは困難でした。
この場合、①実は言語化することが可能であるが、適切な言語やそのことを的確に表現する知識を持ち合わせていないのか、それとも②その感覚や起きている現象を言語化するのは不可能である、の①か②かいずれかなのかと考えたこともありました。
個人的な意見としては、①じゃないかと思います。②もあるのかなとは思いますが、ほとんどの現象は①だと思っています。
これに関しては、深く考えると哲学者が残した認識論や観念論などの深みにはまってしまいますのでこのへんにしておきます。
話を戻しますが、暗黙知をいかに言語化するかは、知性を身に着けていくうえで非常に重要だと思っています。SECIモデルでは、これに関してアナロジーやメタファーを用いると暗黙知を形式知とすることができると書いてあります。
また、対話を通じて暗黙知を形式知にすることができるとも書いてありました。これは、人に何かを教えたり伝えたりする場面などが当てはまります。
人に教えることは、自分の成長につながるということにもつながっていると思います。
ポイントはインプットしたものをアウトプットすること(言語化する=話す・書く)ですね。